芭蕉は高名な俳諧師だったので、地方へ出れば、必ずその地の俳人仲間が手厚いもてなしで迎え入れた。
中部地方では、名古屋・熱田・鳴海・大垣・さらに、岐阜の地にも、そういう仲間がおり、元禄期(一六八八~一七〇四)の岐阜俳壇の隆盛は、大垣に劣るものでなく、その中心は安川落梧であった。
落梧は、岐阜本町の人で、通称助右衛門といった。京都と取り引きする呉服小間物商で、屋号を萬屋という。岐阜屈指の富豪であり、一面すぐれた人格者で世の信望厚く、岐阜俳壇の大御所として、月々、俳筵(句会)を開いて蕉風の普及につとめた。
芭蕉の岐阜来遊も、落梧の度重なる鵜飼見物の招きに応じたものである。貞享五年(一六八八)六月、岐阜妙照寺の僧で俳人でもあった己百の案内で来岐し、 多くの岐阜俳人仲間の出迎えを受けて、妙照寺の奥書院に旅装を解いた。(現在、妙照寺に芭蕉滞在の部屋が残っている。岐阜市梶川町)
その挨拶句として、
宿りせむ あかざの杖になる日まで
を物された。
句意は、この家に泊って、あるじの己百の心をこめたもてなしで、とても居心地がよい。このままゆっくりと滞在させてもらいたいものだ。その気持は、いま、庭に小さい花をつけているあかざ(藜、一年生草木。茎は約一メートルに達する)が、秋になって背が高くなり、杖に用いることが出来るようになるまで、 ゆっくりと世話になっていたいものだといっている。親しみ深い、その人格の偲べる句である。
岐阜滞在中、多くの俳人が芭蕉を招待した。まず、安川落梧亭に招かれ、この日名古屋から芭蕉を迎えにきた山本荷兮(名古屋の俳人、医者)と、当時流行の三つ物(俳諧の発句と脇句と第三句をいう)を試みた。
蔵かげの かたばみの花 めづらしや 荷兮
(折てやトモ)
ゆきてや 掃かむ庭に 箒木 落梧
七夕の 八月はものの 淋しくて 芭蕉
ついで、中川原新田(岐阜市湊町)の油屋、賀嶋善右衛門(俳号歩)の水楼(長良川に臨んだ高殿)で遊んだ。主人の求めに応じて楼名を選び、有名な「十八楼の記」を書いた。(現在、「十八楼」の一階ロビー壁面に、芭蕉の「十八楼の記」が展示してある。)