創業160周年、
長良川温泉 十八楼の歩み
江戸時代前期
1688年 松尾芭蕉 来岐
俳聖・松尾芭蕉翁は1688年(貞享5年)岐阜滞在中、長良川を臨む水楼に招かれ、美しい自然と幽玄な鵜飼、そして街の風情に感銘を受け「十八楼の記」を記した。
「かの瀟湘(しょうしょう)の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや」
(訳・中国の名勝洞庭湖周辺の八景と西湖十景も、すがすがしいこの景色のなかにあるように思われる。この水楼に名前を付けるなら十八楼とでも言いたいものだ)と記し、「この辺り 目に見ゆるものは 皆涼し」の句で結ぶ。
江戸時代末期
1860年 十八楼 創業
江戸時代、十八楼の前身は「山本屋」 であった(山本屋の創業時期は不明)。
山本屋の当主はかつて芭蕉が水楼名をつけた「十八楼」の遺跡が、時を経て風化し名句も忘れ去られてしまったことを嘆き、宿の名を「山本屋」から「十八楼」へと改称した。
地域の宝を再興し、芭蕉が残した文化の種を守ろうとした。
明治時代
川湊として栄える
現・川原町周辺は当時、「中川原湊」と呼ばれ、舟運による物流拠点として繁栄し、長良川に船橋ができた。
明治七年につくられたことから明七橋と名付けられたこの橋は、長良川に架けられた最初の橋である。
木材、和紙、織物などが持ち込まれ、当館周辺は舟夫や商人で賑わった。
大正時代
鵜飼の隆盛
第一次世界大戦後の日本は、好景気を迎え、十八楼を含めた長良川畔の旅館は関西方面からの鵜飼客を中心に賑わいを見せた。
これを機に五代目当主・伊藤末吉は、当時珍しかった3階建てに建て直し、大理石の大浴場や滝を設置した。
大正15年(1926年)の「岐阜商工名鑑」では「層閣新築眺望絶桂」と紹介されている。
昭和時代
川湊として栄える
1944年、十八楼は軍に接収され、岐阜公園内に設置された航空本部の将校宿舎となった。1945年7月9日岐阜大空襲を受けるも、十八楼および川原町界隈は戦火をまぬがれた。
戦後、六代目当主・伊藤久子は妹・友子と協力しながら食糧難・住宅難の中、十八楼の復興に努力した。
昭和時代
復興・成長期
1944年、久子は大橋公平と結婚、公平氏とその実弟・大橋正の経営参画により、十八楼の新しい歴史が開かれた。
七代目当主となった公平は、個人であった宿の経営を合資会社を経て株式会社とし、自身は代表取締役に就任した。
70年代の高度成長期には、周辺を買収しロビーの新築、宴会場や客室の増改築など施設の充実を図り、県下屈指の大規模観光ホテルへと成長させた。
平成時代
まちづくりと共生
伊藤善男が八代目当主に就任。
同時期に川原町の往年の風情を残すことを目的としたまちづくり会が発足する。十八楼を川原町の情緒を取り入れた和風旅館として改築し、観光ホテルから老舗旅館としてのブランディングする。
2010年には創業150周年記念事業として、明治時代の土蔵を移築・改築し、レストラン「時季の蔵」をオープン。2010年度に岐阜市都市景観奨励賞を受賞。(これ以降も2度受賞)
同年10月伊藤家より寄贈された、江戸時代の「洛中洛外図屏風」を修復し、岐阜市歴史博物館に特別展示された。同じく2010年度株式会社観光経済新聞社主催の「人気温泉旅館ホテル250選」に認定され、以降継続して「5つ星の宿」として選出されている。
十八楼物語
ごあいさつ
日頃のご愛顧に深く感謝申し上げます。このたび、当館では、愛・地球博(愛知万博)の大成功を記念して、小冊子「十八楼物語」を刊行いたしました。愛・地球博は、人類が自然環境と伝統を守ることの大切さを再認識させてくれました。
いまから三百十余年前、当地の岐阜を訪れ、多くの俳人仲間と交遊をかわした俳聖 松尾芭蕉は、金華山・長良川の自然美と、鵜飼の幽玄な世界に感動して「十八楼の記」を著わし、多くの名句を詠みました。当館の先祖は、芭蕉翁の遺跡を大切に守ろうと発願し、その保存に全力を傾注するとともに、自分の経営する旅館名も「十八楼」としました。この小冊子には、芭蕉の岐阜来遊の様子や、賀嶋鷗歩(かしまおうほ)の水楼を「十八楼」と名付けた経緯、さらに、当館の創業以来、今日までの歴史を記しています。まことにささやかな冊子でございますが、ご一読くださればありがたく存じます。
最後になりましたが、本冊子の執筆ならびに編集の労を賜りました加納宏幸氏(郷土史家・岐阜県歴史資料保存協会会長)に厚くお礼申し上げます。
平成十七年十二月吉日
十八楼八代館主 伊藤善男