十八楼物語
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十八楼の歴史

おかげさまで創業150年十八楼の歩み

万延元年(1860年)の創業以来、長良川畔に佇み、訪れるすべての方とのご縁を大切に歩んだ150年。
支えて頂いた皆様への感謝の気持ちを忘れず、これからも川原町とともに歩み続けてまいります。

◇ 創業150周年。十八楼の歩み ◇

俳聖・松尾芭蕉翁は1688年(貞享年5年)岐阜滞在中、長良川を臨む水楼に招かれ、美しい自然、幽玄な鵜飼、この町の風情に感じ入り「十八楼の記」を記した。
「かの瀟湘(しょうしょう)の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや」
(訳・中国の名勝洞庭湖周辺の八景と西湖十景も、すがすがしいこの景色のなかにあるように思われる。
この水楼に名前を付けるなら十八楼とでも言いたいものだ)と記し、「この辺り 目に見ゆるものは 皆涼し」の句で結ぶ。

江戸時代、十八楼の前身は「山本屋」 であった(山本屋の創業時期は不明)。山本屋の当主はかつて芭蕉が水楼名をつけた「十八楼」の遺跡が、時を経て風化し名句も忘れ去られてしまったことを悲しみ、自らの宿の名を「山本屋」から「十八楼」に改称した。地域の宝を再興し、芭蕉が残した文化の種を守ろうとした。

現・河原町周辺は、当時、中川原湊と呼ばれ舟運による物流拠点として繁栄し、長良川に船橋ができた。明治七年につくられたことから明七橋と名付けられた。長良川に架けられた最初の橋である。木材、和紙、織物等が持ち込まれ、当館周辺は、舟夫や商人で賑わった。

第一次世界大戦後の日本は、好景気を迎え、十八楼を含めた長良川畔の旅館は関西方面からの鵜飼客を中心に賑わいを見せた。これを機に五代目当主・伊藤末吉は、十八楼を当時珍しかった三回建てに建て直し、大理石の大浴場や滝を設置した。大正15年(1926年)の「岐阜商工名鑑」において「層閣新築眺望絶桂」と紹介されている。

1944年、十八楼は軍に接収され、岐阜公園内に設置された航空本部の将校宿舎となった。1945年7月9日岐阜大空襲を受けるも、十八楼及び川原町界隈は戦火をまぬがれた。
戦後、六代目当主・伊藤久子は妹・友子と協力しながら食糧難、住宅難の中十八楼の復興に努力した。

1944年、久子は大橋公平と結婚、公平氏とその実弟・大橋正の経営参画により、十八楼の新しい歴史が開かれた。
七代目当主となった公平は、個人であった宿の経営を合資会社を経て株式会社とし、自身は代表取締役に就任した。
70年代の高度成長期には、周辺を買収しロビーの新築、宴会場や客室の増改築をするなど施設の充実を図り、県下屈指の大規模観光ホテルとなった。

伊藤善男が八代目当主に就任。同時期より川原町の往年の 風情を残すことを目的としたまちづくり会が発足する。 十八楼を川原町の情緒を取り入れた和風旅館として改築し、 観光ホテルから老舗旅館としてのプランディングを行う。

2010年には創業150周年記念事業として、 120年前の土蔵を移築・改築し、 レストラン「時季の蔵」をオープン。2010年度岐阜市都市景観奨励賞を受賞。2010年10月伊藤家より寄贈された、江戸時代の「洛中洛外図屏風」が修復され、岐阜市歴史博物館に特別展示された。2010年度(株)観光経済新聞社主催の 人気温泉旅館ホテル250選に認定される。

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